『今をときめく』
──今をときめくスーパーアイドル。
◇ ◆ ◇
逃げてしまった。よりにもよってホテルに
美希ひとりを置き去りにして。
マネージャーとして、いや社会人として失格じゃないか。女子中学生と行くところまでいって、翌朝になってその事実の重さに耐えきれず、たったひとりで逃げ出してしまうなんて。
もうどのくらい走り続けたのかもわからない。ただ車のガソリンが底をついているという警報ランプが点灯してるから、少なくとも300キロかそこらは走り続けたのだろう。もっとも本当にタンクが空になるまで走り切った経験はないので、あとどのくらい走れるものなのか見当もつかない。
改めて回りの風景を見回す。嫌になるくらいの晴天に照らし出された一面の田園風景だった。ビルらしきものは影も形もない。かろうじて一軒家があちこちに点在し、おそらくは首都圏に電気を供給するための巨大な鉄塔がいくつか目につくくらいである。おまけに前後を走る車も両手で数えられる程度だ。
発進する前にカーナビや携帯の電源は全て切っていた。追跡される可能性を考慮したためだが、おかげで現在位置を知る術もない。それでも地名が書かれた道路標識はいくつかあったはずなのだが、思い出すこともおぼつかなかった。それほどまでに動転していたのか、それとも無意識のうちに拒否していたのか。
それでも最低限の手だけは打ったつもりだった。無責任極まりない話だが、いちおうホテルを飛び出す前に、事務所の事務員である音無小鳥さんには『
美希をお願いします』と、876プロでアイドルを営業中の私のいとこにあたる秋月涼に『心配しないで』と、2通のメールだけは送ってる。たった一行のメールを打つのにいつもの3倍、いや5倍は時間がかかってしまったが。
少なくとも小鳥さんにお願いしておけば当面の心配はない。今ごろ
美希の所には彼女か、さもなければ他のプロデューサーが迎えに行っているはずだ。涼の方は心配するなと言っても無理だろうけど、あの見かけによらず芯はしっかりしてる方だから、パニックに陥るほど取り乱すことはないだろう。
どこに行く当てがあるわけでもなかったが、このまま走り続けていて本当にガス欠になっては目も当てられない。さてどうしようと考えを巡らせようとしたら、彼方にガソリンスタンドの看板がちらりと見えた。
──
美希、どうしてるかしら。
スタンドに車を滑り込ませながら、ふとそんな思いがかすめる。我ながらバカげてるだと思う。そんなことを考えるくらいなら、そもそもなんで逃げたりするのか。そう、私は逃げた──いや違う、捨てたのだ。
美希を。仕事を。マネージャーを。
いつの間にか自分自身をがんじがらめに縛り上げていた、全てを──。
◇ ◆ ◇
小さなコンビニまで設置されれるスタンドの店員さんに、ガソリン満タンと簡単なチェックをお願いする。そして生理的欲求を処理してる間にも、
美希の事が頭から離れることはなかった。いやそれどころか、それこそここまで運転してる間だって、片時も。
彼女が秘かに想いを寄せている事には気づいていた。ただ知らぬ振りをしていただけ。最初のオーディションで私の新曲と振付を完璧に再現してみせたこと。それでいてアイドルのお仕事自体にまるで興味がないこと。そして事務所で、仕事場で、移動中に、ふと垣間見せる物言いたげな視線の意味も。
それを怠け者だから、やる気がないからだと叱り飛ばしながら、それでも自分の手元に置いていた。そうやって小賢しい大人を演じ、彼女のアイドルとして売り出すことだけに没頭していた。より正確には、そうやってもうひとつの事実に目を背け続けていた。そのあげくがこのザマというわけ。
ふと頭を上げると、バックミラーに自分の姿が映っていた。それはもう吐き気を催すほどの無様な姿だった。全てを投げ捨て、放り出して、逃げ出してしまった人生の敗者に似つかわしい。
どこからか美希の歌う『マリオネットの心』が聞こえてくる。田舎のスタンドではありがちな光景だ。おそらくラジオか有線放送を、そのままスピーカーに繋いで流しっぱなしにしてるのだろう。某プロダクションのアイドルグループを除けば、CDでミリオンセラーを次々と叩きだしてる彼女のことだ。リクエストが殺到していたとしても少しも不思議はない。
──今をときめくスーパーアイドル。
陳腐なキャッチコピーが、これほどまでに似つかわしい人間も少ないだろう。若干15歳にして日本中の人々の心を虜にする少女を、他になんと呼べばいいのか。少なくとも私にはそれ以外の言葉を思い浮かべることができない。
コンコン。
その時だった。誰かが運転席の窓を軽くノックする。もう給油が終わったのか。首を軽く振った姿勢のまま、私はありえない物を目撃したショックで、そのまま身も心も凍り付いた。
「まさか──そんな……」
美希が。
あの星井美希が。
きらびやかな衣装を身にまとった、今をときめくスーパーアイドルが、にこやかな営業スマイルを浮かべて窓越しに私を睨み付けていたのだから──。
◇ ◆ ◇
「『秋月
律子を探せ』チャレンジ……?」
「そーゆーこと。ただ今『生っすかサンデー』の特別企画ってことで生中継中なのー」
「……発案者は小鳥さんあたり?」
「半分はね~♪」
有無を言わせぬ勢いで助手席に滑り込んできた美希が種明かしを始める。外では小型のビデオカメラを持った小鳥さんが私達の様子を撮影していた。きっとインターネットか何かで全国にこのマヌケな状況が放映されているのだろう。
「でもどうして私の居場所が? 携帯も何も全部切ってあるはずなのに」
「答えは簡単なのー」
世界の半分を恋に落とすような笑顔を浮かべながら美希が口を開く。ただし目だけはちっとも笑っていなかった。ファンの皆様には最大の企業秘密だが、笑顔で怒る特技は何も私の専売特許ではない。
「ほら、これ見て、これ」
「……何?」
彼女が私の鼻先に突き出したのは、例のリンゴのマークのついたスマートフォンだった。その画面には小さなアイコンがいくつかと、おびただしい文字が表示されている。
「ツイッターで
律子さんの目撃情報を集めてたってわけ。番組の企画って言うことでね~♪」
「マジか……」
つまり私が必死に逃げてる事はとうの昔に日本中に知れ渡っていて、そこらじゅうの人達がそれを血眼になって探し回ってたと。それって下手な警察の捜査網よりよっぽど怖いんじゃないだろうか。
「涼クンが
律子さんのメールを見て、お友達で元ネットアイドルやってた娘に相談したらしいの。でもって、これもその娘のアイディアなの~」
ああ、あの娘か。名前は確か……絵理。水谷絵理とか。涼に何度か聞かされたことがある。しまったなあ。心配かけまいと思って出したメールが元で、こんな急展開を巻き起こすとは想像もできなかった。
「それでツイッターの目撃情報から、小鳥さんに車を走らせてもらって、ずーっと追いかけてきたの~」
そういうことだったのか。どうやら小鳥さんにも思ってた以上に迷惑をかけてしまったらしい。パワーウインドウを開け、彼女に声をかける。
「あの……」
「(しーっ)」
ところが小鳥さんは片手でビデオカメラを器用に操りながら、もう片方の手の人差し指を自分の口の前で立ててみせた。まだ生中継の最中だから、うかつな台詞を口にするなという事か。
「というわけで、我々捜索チームは無事に
律子さんを発見、確保しました。全国の皆様のご協力に感謝しつつ、一度スタジオにお返ししまーす」
ヘッドセット越しに小鳥さんの宣言が伝えられる。これで大半の視聴者は、今回の騒動も番組の企画という事で納得してしまうのだろう。しかも全国のファン達も巻き込んだ楽しい企画として。
「これでとりあえず
律子さん行方不明事件は、業界的には不問ということで。あとは
律子さんと美希ちゃんでよーく話し合うこと。いいわね?」
「……わかりました」
頭を下げる私を尻目に、小鳥さんは続いて美希にも声をかける。
「では邪魔者はこれで退散するわ。美希ちゃん、あんまり怒っちゃダメよ? 普段はああでもいざとなると腰が引けちゃうのよ。律子さんって意外にメンタル弱いんだから」
「わかってるの~。だって今朝、それを思い知らされたばっかしだから」
「ふふ、それもそうか。じゃあね、健闘を祈るわ。美希ちゃんも、律子さんもね♪」
暗に逃げちゃダメって言われてるんだろうなあ、これは。小鳥さんのメッセージを誤解するほど私もバカではないつもりだ。去っていく彼女の姿をぼんやりと眺めていると、
「ねえ、律子……さん」
驚くほど暗い声の調子に私は驚いて振り向く。先ほどまでの営業スマイルは影も形もない。瞳の半分を怒りの色、もう半分を哀しみの色に染めた少女がそこにいた。
「律子……さんは、美希の事嫌いなの?」
自分で自分の事を絞め殺してやりたい衝動にかられる。ごめん、美希。私のせいで貴女にこんなやるせない想いを味わせてしまって。
「そうじゃないのよ。ただその、ほら……ちょっとパニくっちゃって」
「なんで? どうして? 好きな人同士なら、あんなことになってもヘンじゃないでしょ?」
「それは……やっぱ女同士だし、私はプロデューサーだし、それに美希はまだ未成年だし……」
すると心底わからないという表情を浮かべながら、美希は再び口を開いた。
「それが何かかんけーあるの?」
「いや、だから……」
「人が人を好きになるのに、大人だからとか、お仕事だからとか、かんけーあるの?」
言葉に詰まる。この期に及んでまだ私は逃げようとしてた。これじゃ同じことの繰り返しじゃない。美希がこれだけ真剣に話をしようとしているのに。
「あのね美希。これは貴女の将来のためなの。私といっしょにいたら、いつか必ずスキャンダルになる。もしそうなったら貴女の輝かしい未来に……」
「そんなもの要らないっ!」
激しい、悲痛な叫びが私の魂を揺さぶる。
「律子……さんさえ側にいてくれたら、美希は他に何もいらない。お金も、アイドルも、世界もいらない。私にとっては律子……さんだけが全部なのっ」
「美希……あんた……」
両手を握りしめ、ブルブルと全身を震わせながら言い放った美希に対し、私は躊躇せずにはいられなかった。何故そこまでなんて聞くだけ無駄だろう。おそらく彼女自身も自分の気持ちを言葉では説明できない。理屈ではないのだ、恋なんてものは。
「わかったわ」
ため息交じりに私は矛を収める。今の彼女を説得するのは到底無理だとわかったから。
「美希の気持ちはよくわかった。ただ私にも考える時間がほしいの。お願いだから」
「律子……さんは、美希の事嫌いなの?」
再び美希が問いかける。だが私はもうごまかさない。
「私だって美希の事は好きよ。だけどあんまり私を悩ませると、キライになっちゃうかも」
「えー、それは……困る、かも」
初めて狼狽の表情が美希の顔に浮かんだ。この辺りはまだまだ若いわね。心の中で苦笑する。
「美希の事はできるだけ大切にする。単なるマネージャーとしてだけでなく、恋人としてみてもいい。ただ公私の区別はつけてほしいな。それと昨夜みたいのは……ちょっと」
脳裏に浮かんだ美希の切ない声を懸命に打ち消しながら、私はなんとか彼女との着地点を探ろうとした。ところが、
「ねえ律子……さん。なんかエッチなこと考えてるでしょ?」
「な……っ!」
「だって頬が真っ赤になってるんだモン。カワイイ」
ニヤニヤと人の悪そうな笑みを美希が浮かべている。ようやく優位に立ったと思ったのもつかの間、たちまち形勢が逆転だ。
「とにかくっ」
いやいや、ここで美希のペースに乗っては駄目よね、うん。
「これでも私は19歳なんだから、18歳未満の人間にエッチなことしちゃいけないの。法律で決まってるんだから。もしバレたら私は刑務所行きなのよ。美希はそれでもいいの?」
「ダメ、そんなの絶対ダメ!」
「だったら、そこは聞き分けてちょうだい。いいわね」
「……わかった」
しゅーんとなってしまった美希を見ていると、ちょっとだけ可哀想になってしまう。大体、未成年に手を出しちゃいけないのは、法律じゃなくて条令だしね。それに……自分も我を忘れるほど夢中になってしまったのも、まるっきり否定することはできないし。
でもだからこそ、私は無性に怖かった。もしこのまま美希との快楽に耽溺するようになってしまったら、絶対に歯止めが効かなくなる。そんなことを続けていたら、いずれそれは第三者の知る所となり、それは美希のアイドル生命の終わりを意味するのだ。何が何でも、それだけは防がなければ。なにせ彼女は日本はもちろん、いずれは世界を席巻するかもしれないほどのスーパーアイドルなのだから。
「それでは、いちおう話もまとまったことだし、何か食べない? 実は私、昨日の夜から何も食べてないのよね」
「はいはーい、美希はね~」
「おにぎり、でしょ?」
「ぶ~ぶ~ぶ~、まだ何も言ってないのに~」
泣いたカラスがもう笑ってる。この調子なら私も緊張を解いてもよさそうだ。
「あんたの好みくらいお見通しだって。だてにマネージャーやってるわけじゃないのよ」
「それに今は恋人だもんね。今度から律子……さんのこと、ハニーって呼んでいい?」
「……それだけはやめて。他の人に聞かれたら大変な事になるから」
「えー、なんでなんで~」
「とにかく駄目なものは駄目。そこでおにぎり買ってくるから、美希はおとなしく待ってて」
「そーして? 美希もいっしょにいっちゃダメなの?」
「その格好で人前に出たら回りが大パニックになるでしょ。あんたはもう少しアイドルの自覚を持ちなさい」
「……はーい」
さすがに大騒ぎになるくらいの自覚はあったらしい。不満げではあるが、あの我儘な美希があっさり引き下がったのだから。
自分の財布だけをバッグから取り出し、スタンドの中にある小さなコンビニへと向かう。そこで適当におにぎりを見繕った。田舎の割には結構種類があったので、結局10個以上買う羽目になる。おそらくその大半は美希が平らげてしまうのだろうけど。
レジで会計をしてる間、ガラス越しに車の美希の様子を伺う。それに気づいた彼女が、まるで飼い主を見つけた犬のしっぽみたいな勢いで、ぶんぶんと腕を振っていた。
──今をときめくスーパーアイドル。
一点の曇りもない好意を遠慮なくぶつけてくる美希。
なんて愛らしいんだろう。
たったそれだけのことなのに。
今にも胸がはち切れそうなくらい嬉しい。
悔しいけど。
認めよう。
今の私は全身全霊で、彼女の全てに、ときめいている。
(おしまい)
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